2026.03.27“日本のあたたかさ、未来へ” マルコメが描く発酵食品の可能性 vol.10【マルコメ様】
こんにちは。サンプロ広報のヤマダです!
日本のあたたかな食卓を思い浮かべたとき、かならずあるものといえば・・・“お味噌汁”。
皆さんは、信州が「発酵長寿県」として世界からも注目されていることをご存じでしょうか?
その大きな鍵を握っているのが、古来より私たちの食卓の真ん中にあり続けてきた「発酵食品」の力です。

今回は、日本の食卓の中心にある「お味噌」づくりのトップランナー、マルコメ株式会社様を訪ねました。信州を起点に紐解く味噌の歴史から、マルコメ様の数々の挑戦と革命、工場見学レポートやとっておきの「推しグルメ」まで、たっぷりお伝えしていきます!
【今回お話を伺った素敵な信州人】

マルコメ株式会社 マーケティング本部
マーケティング部 店舗事業課
須田 信広 様
1995年に入社以来、1年間の工場勤務を経て、即席みそ汁の商品開発、通販事業の立ち上げ、マーケティングなど、マルコメの味を全国、世界へ広めるための最前線を歩んでこられたスペシャリストです。 現在は、メディア対応から工場見学の案内、さらには保育園から大学まで味噌や和食文化を次世代へ伝える出前授業等幅広く活躍されています。
推しグルメ :プラス糀 生みそ 糀美人(こうじびじん)
詳しい商品紹介、おすすめの食べ方は工場見学編で紹介いたします✨
■創業はペリー来航の翌年!?マルコメの歴史
マルコメさんの創業は安政元年(1854年)、170年の歴史とお聞きしました。安政元年というと黒船来航の翌年ですよね
はい、日米和親条約が結ばれた年ですね。 創業者の青木民右衛門(あおき たみえもん)はもともと地主で、小作人から集まる大豆やお米を使って味噌を作り始めた「味噌作りの名人」だったそうです。
実は創業前の弘化4年(1847年)に善光寺地震があったのですが、その時に民右衛門は蔵にあった味噌を被災した方々に振る舞ったという逸話が残っています。 その後、戦後の1948年に『青木味噌醤油株式会社』として法人化されました。当時すでに屋号の「マルコメ」の方が広く知れ渡っていたので、1967年に社名も「マルコメ味噌」に変えたんですよ。
💡ここがミソ
そして1990年、現在の『マルコメ株式会社』へと社名を変更します。この時、あえて看板商品である「味噌」の文字が外されました。そこには、味噌だけでなく、発酵技術を核とした『総合食品メーカー』を目指すという強い決意が込められていたそうです。
■なぜ信州は味噌王国になったのか
「発酵長寿県 長野へようこそ」という看板がありました。長野県は味噌の生産量日本一ですよね!なぜここまで信州で味噌づくりが広まったのでしょうか。
大きなきっかけは戦後の食糧難の時代です。当時は原料が手に入りにくく、配給制の中でトウモロコシや芋、グリーンピースなどを混ぜてかさ増しした粗悪な味噌も世の中に広まっていました。そこで長野県は「検査条例」を作り、良質な味噌しか出荷しないように規制したんです。合格証書を貼って品質を保証していました。
はい。さらに、偽物と区別するために組合が「信州味噌」という団体商標を取得しブランドを守りました。
💡ココがミソ
長野県らしくまじめな品質管理とブランドの確立によって「信州味噌=おいしい」という信頼は全国的なものとなりました。その美味しさを全国へ届けることができた背景には、首都圏などの大消費地に近いという地理的な利点も関わっています。
■業界の常識を変えた、マルコメが起こした革命
創業170年という歴史の中で、常に業界の常識を覆してこられたと伺いました。その中心にあったものはなんだったのでしょうか。
それは「伝統を守りながらも、常に新しい風をいれていく」という社風です。特にそれを体現していたのが、昨年(取材時)亡くなった三代目の青木佐太郎会長です。会長はとにかく新しいものが好きで、反対の声があがっても常に未来を見越した強い考えで社を牽引し、いくつもの革命を起こしてきました。
【革命①】味噌の流通を変える 昭和35年(1960)
かつてお味噌は量り売りが当たり前でした。メーカーは約72ℓの大きな木樽に味噌をつめて、問屋さんや小売店に送り、お店で量り売りをしてもらった後、空になった樽を回収・洗浄して再利用していたんです。
そうなんです。そこで会長は『段ボール箱』にビニール袋を敷いてお味噌を詰め、送った先で箱ごと処分してもらうワンウェイ方式を業界で初めて導入しました。
小売店さんからは『店頭に並べる桶がないと困る』と言われまして、、
そこでマルコメの屋号が入ったホーローの容器を配り、そこに移し替えて売ってもらうようにしたそうです。これが流通革命の始まりでした。
【革命②】お菓子の技術で味噌の個包装を実現
私はスーパーに並んでいるお味噌しか見たことがないので、量り売りは新鮮な感じがします
スーパーでは量り売りではなく、パック詰めされた商品が必要になります。でも、粘り気のあるお味噌を高速で袋詰めする機械なんて、当時はどこにもありませんでした。 そこで会長が発想を得たのがお菓子の包装です。
💡ココがミソ
今では当たり前のスーパーマーケット。会長はここにいち早く目を付けていました。
菓子業界では、袋を枕のような形にする「ピロー包装」で大量生産していました。会長は機械メーカーに頼み込み、お菓子の包装技術とお味噌の充填技術を無理やりドッキングさせて、連続式の自動充填機を作らせたんです。これで大量生産が可能になり、スーパーの棚を一気に獲得しました。
【革命③】最大の転機「だし入り味噌」と、社運を賭けた「ハレー作戦」
創業170年の中で、マルコメさんが業界トップの座を確固たるものにする「最大の転換点」はどこだったのでしょうか?
間違いなく、1982年の「だし入り味噌(料亭の味)」の発売と、それに続く「ハレー作戦」です。 これこそが、どんぐりの背比べ状態だった味噌業界から、マルコメが一気に抜け出した瞬間でした。
だし入り味噌、「料亭の味」には私も本当にお世話になっています。特に一人暮らしを始めたばかりの頃に自炊のハードルを下げてくれたありがたい存在でした。
▼だし入り味噌開発のきっかけは苦情?!
実は開発のきっかけは、お客様からの「マルコメの味噌でお味噌汁を作ったけど、美味しくなかった」というお叱りの電話だったんです。 よくよくお話を聞いてみると、そのお客様は出汁を取らずに、ただお湯にお味噌を溶いただけだったんです
それは、、、お味噌のせいではない気がします、、、(笑)💦
そう思いますよね(笑)しかし、共働き世代も増加していた1981年、ここに本当のニーズがあるとわかり、マルコメだし入り味噌プロジェクトが発足しました。
💡ここがミソ
「出汁をとるのが面倒」という潜在的な不満。お客様が本当に望んでいるものを作るという信念が大ヒット商品誕生の鍵でした。
・・・しかし開発当初は「出汁入り味噌」を作るのは技術的に不可能と言われていたそうです。

▼出汁×酵素 執念の技術開発
お味噌の中では「酵素」が活きています。この酵素が、混ぜたお出汁の旨味成分を分解してしまい、旨味が消えてしまうんです。 だから、出来上がったお味噌にただ出汁を混ぜるだけではうまくいきませんでした。
酵素の働きを止めるには加熱処理が必要ですが、お味噌はずっと熱を加えていると色が濃くなり、香りも飛んでしまいます。 そこで、一瞬だけ80度以上に加熱して酵素の活性を止め、直後に20度台まで急冷するマルコメ独自の過熱処理システム「急速加熱冷却装置(マルコメクッキングシステム)」を開発しました。構想からわずか1年、1981年のことです。
▼マルコメクッキングシステム
▼“ハレー作戦”決行
こうして1982年にだし入り味噌「料亭の味」を発売するとこれが大ヒットしました。
そうして迎えた1986年、76年ぶりに地球に接近した「ハレー彗星」になぞらえて“ハレー作戦”という一大プロジェクトを打ち出します。
ハレー作戦!名前からして壮大ですね。どんな作戦だったのでしょうか。
商品のほとんどをだし入りに切り替えるという大勝負でした。当時は社内でも反対意見が多く出たそうです。
歴史ある食材なだけあって、伝統の刷新は大変そうです。
結果は、皆さんが知る通りです。全体の約8割の商品をだし入りに切り替えたことで、マルコメのシェアは爆発的に伸び、業界他社を突き放して日本一になりました。 「手間を省きたい」というお客様の潜在的なニーズを技術で解決し、それをスタンダードにしてしまった。まさにマルコメのイノベーションの象徴と言える出来事ですね
【革命④】マルコメ君の誕生
マルコメさんといえば、あのかわいい“マルコメ君”ですよね
マルコメ君の誕生にも理由があります。かつてはお店で買っても「信州味噌」としか呼ばれず、メーカー名は表に出ていませんでした。そこで会長の「これからは消費者がブランドを選ぶ時代が来る」という先見の明が光ります。テレビのゴールデンタイムにCMを流し、「マルコメ」という社名を覚えてもらうブランディングを始めたのがマルコメ君の最初だったんです。
味噌づくりの会社として認知を広げる発想自体が画期的だったのですね。
「子供の頃に覚えた名前は、大人になっても選ばれる」。 その信念のもと、丸刈りの男の子のキャラクターでお茶の間に浸透させていきました。
‐さてここで マルコメ君クイズ!!!‐
マルコメの公式キャラクター「マルコメ君」。 実は、現在のマルコメ君は3代目だということをご存知でしたか?
そこでクイズです! 現在のマルコメ君は、美味しそうなお味噌汁が入った「お椀」を手に持っていますが、初代マルコメ君が手に持っていた道具は、次のうちどれでしょう?
A. お箸 B. すり鉢 C. 大豆
正解と解説はこちら
【正解】 B. すり鉢
【解説】 初代マルコメ君は、お寺の小僧さんのキャラクターです。 昔のお寺の小僧さんの修行には、味噌を仕込むために大豆をすり鉢で挽いたり、味噌汁を作るために味噌をするという食事の支度がありました。そのため、初代は「すり鉢とすりこぎ」を持っていたのです。 しかし、時代も変わり、昭和40年からは、現在の「お椀」を持つ姿にバトンタッチしたそうです。“これからの未来を担う子どもたちに美味しい味噌汁を飲んでほしい”という思いも込められているみたいですよ。
時代の変化に合わせて、マルコメ君も進化していたんですね!
これまで日本の発酵食品に向き合ってきたマルコメさん。コーポレートメッセージには“日本のあたたかさ、未来へ”を掲げ、日本食を根底から支え、世界中へと広げていっています。そんなマルコメさんから見た発酵食品の色々を未来視点で聞いてみました。
■これからもっと注目するべき発酵食品
創業170年を経て、今なお進化を続けるマルコメさんですが、これからの未来、発酵食品にはどんな可能性があるとお考えですか?
可能性は無限大だと思っています。近年は「健康志向」の高まりで、味噌だけでなく、糀(こうじ)そのものの力が注目されていますよね。 糀甘酒や塩糀、米糀ミルクのように、形にとらわれない新しい発酵食品がどんどん生まれています。 長野県は「発酵長寿県」と言われるほど発酵文化が根付いています。今は「発酵バレーNAGANO」というコンソーシアムを作って、発酵食品産業団体や企業が連携し、長野の発酵文化を世界に発信しようという動きも始まっているんですよ
▼発酵バレーNAGANO 公式サイト パンフレット
企業を超えて「信州の発酵」を盛り上げようとしているんですね!
はい。そしてもう一つ、私たちが力を入れているのが「大豆のお肉」です。 今はまだベジタリアンやヴィーガン向けのイメージが強いですが、数十年後には世界的な人口増加で食肉が足りなくなる「タンパク質クライシス」が来ると言われています。
お肉が食べられなくなるかもしれない……切実な問題ですね。
その時に、大豆からお肉のようなものを作ってタンパク質を供給できれば、食糧危機を救うことができます。 私たちには、長年味噌づくりで培ってきた「大豆を扱う技術」があります。このノウハウを活かして、将来の食卓を守る準備を今から進めているんです。


味噌づくりで培ってきた大豆を扱う技術が、未来の食糧危機を救う大豆のお肉に繋がっているんですね
■マルコメのビジョン
私たちが目指しているのは、単にモノを売るだけではなく、その先にある「健康」や「幸せな暮らし」に貢献することです。私たちは体に悪いものを作らない。そういった意味でも、170年培ってきた発酵の力で、皆さんの健やかな毎日を支え続けていきたいと考えています。
マルコメ様がお味噌屋さんを超えて、発酵技術を核とした「総合食品メーカー」として、私たちの健康や未来の食卓まで支えてくださっていることがよく分かりました。これからどんな革命が起こされるのか楽しみです!
私はもうどっぷり味噌漬けなので、ここから先の新しい発想は、若い社員たちに期待しています。 伝統を守りながらも、常に新しい風を入れていく。それがマルコメの変わらないスタイルですから。
【取材後記】 変わり続けて、伝統を守る
今回、須田さんのお話を伺って最も印象的だったのは、「伝統を守りながらも、常に新しい風を入れていく」というマルコメ様の姿勢でした。
170年という長い歴史を持ちながら、それに安住することなく、「だし入り味噌」や「液みそ」といった業界の常識を覆すイノベーションを起こし続けてきた原動力。それは、「お客様が本当に望んでいるものは何か」を徹底的に追求する視点と、「体に悪いものは作らない」という食への誠実な想いでした。
味噌づくりから始まったその情熱は今、発酵技術を核とした「総合食品メーカー」として、大豆のお肉などの未来の食卓を守る挑戦へと繋がっています。コーポレートメッセージである「日本のあたたかさ、未来へ」という言葉の通り、マルコメ様は発酵の力で私たちの健やかな未来“健康長寿”を醸成しようとしています。
\さて、次回はいよいよ工場の潜入レポート! /
この革新的なアイディアと伝統の味は、一体どのような現場で生まれているのでしょうか? 次回は「巨大設備」と「繊細な微生物」が共存する、圧巻の工場見学編をお届けします。どうぞお楽しみに!
▶工場潜入レポートはこちら