今回の舞台は須坂。歴史ある蔵のまちなみが紡ぐ町の歴史とはー?
今回の舞台は須坂。江戸時代に須坂藩の陣屋町として発達し、明治から昭和初期にかけては近代製糸業によって繁栄。豪商たちの町屋や土蔵などがいまも数多く残されています。今回は保存活用されている建物や地形などから、須坂のまちの魅力を探っていきます。
好天に恵まれ過ごしやすい春の陽気。蔵のまち観光交流センターが今回のスタート地点。
まちあるき参加者は12人、蔵の町に期待に胸を膨らませながら、いざ須坂のまちあるきに出発です。
須坂の町を歩くと道路が斜めに分岐したり、単純な4つ角や丁字路ではない交差点の多さに気づかされます。都市計画が整う前に製糸業の発達で急速に都市化が進行したことが、複雑な交差点や見通しのよくない斜め路地の多い理由とされていますが、ときに建物の下をも流れる水路や土地の高低差もまた、入り組んだ街路を意識させる理由のひとつかもしれません。
この地図は昭和初期頃の須坂町の様子。現在とほぼ変わらぬ街路の様子がよく分かりますね。でも単純な直線道路よりも、ちょっと迷いながら歩く路地のほうがずっと楽しく感じられます。
須坂市指定有形文化財でもある建物は、須坂に残る明治期の町家建築の代表的存在。近代須坂の様々な歴史が擦り込まれた重厚な屋敷に触れてみると、往時を生きた人々の息遣いが聞こえてくるような不思議な感覚を覚えます。
豪商・小田切家の建物は昭和の終わり頃から長らく空家状態が続いていました。これを須坂市が買い取り市民の共有財産として再生。長野県宝にもなった現在は、貴重な近代建築遺産の価値に加え、市民や観光客の憩いの場に生まれ変わりました。活用しながら保存する〝動体保存〞は文化財の素敵な継承事例です。
時代の変化があっても地形は変わらず、建物は地域の宝として継承される。須坂の魅力再発見となったまちあるきでした。
“地形は変えられない。変えても土地は覚えている”
有名なまちあるき番組で司会者が呟いた言葉です。
かつて徳川家康が入府した頃の江戸は海が内陸深くに入り込み、湿地の多い土地でした。これを家康が大規模な埋め立てや水路開削で改変し、八百八町と呼ばれる大江戸の礎を築いたわけですが、さすがに台地や谷の地形すべてが改変されたわけではなく、いまも東京の多くの場所では、自然のままの地形がビル群の足元に残り、暮らしのなかで地形は巧みに利用されています。
そして番組内、高低差の大きい地形の上に発展した渋谷の中心街を巡ったあとに呟かれた言葉は、高低差を愛する司会者らしさあふれるフレーズであり、地形好きの番組ファンのあいだでは名言とも評されています。
山国信州に暮らす私たちも自分の足でまちをゆっくり巡ってみると、地形がまちの形成に影響を与えていることに気づかされる場面が何度もあります。
例えば明治から昭和初期にかけて製糸業で繁栄した須坂のまち。いまも残る屋敷や土蔵から当時の繁栄ぶりを伺い知ることができますが、製糸業発展の背景には地形と地質の影響が大いにあったともいわれています。
この地で製糸業が発展した主な要因。それは蚕の餌となる桑栽培が扇状地の地形と高燥な気候に対して相性がよかったこと。降雨の少なさが繭貯蔵にも最適であったこと。土地の程よい勾配により以前から水車動力を用いた商工業者が大勢いたため、その動力をそのまま器械製糸に転用できたこと。そして水路の水が酸性であるため水車の寿命を延ばすことに役立った、などなど。
須坂はそうした地形や地質を人々が巧みに利用して発展を遂げたまちでした。少々大げさですが、少し逆説的に扇状地の地形と地質が須坂のまちを築き上げた、と考えてみるのも面白いかもしれません。
まちは地形を無視して成り立ちません。たとえ大規模な造成があっても、土地には必ず記憶があり、まちにはその痕跡が残されています。
土地の高低差をはじめとする地形や地質の姿と触れ合い、まちの成り立ちを物語る痕跡を探ることもまた、まちあるきの楽しみ方のひとつとして是非おすすめしたいところです。