木曽福島編
2022.09.04
物語を紡ぐ
歩いてみないと気づかない"まちの魅力”を再発見

木曽福島編

今回の舞台は木曽福島。高低差と路地、まちあるきの魅力がたっぷりです。

まちあるき

関所はなぜ福島にできた?

今回の舞台は、まちあるき部では初開催となる木曽谷。その中心地・福島のまちなかを探訪します。江戸時代初頭、この地に関所が設けられ、「入鉄砲出女」を中心とした厳しい取り締まりが行われましたが、日本四大関所のひとつに数えられる最重要ポイントの関所は、なぜこの地に設けられたのか?宿場であり城下町でもあった坂と路地のまちを巡り、その理由を探ります。

イオン木曽福島点前
まちあるきマップを持って

01イオン木曽福島店前

朝9時半にイオン木曽福島店前で待ち合わせ。この日のまちあるきは、11月半ばということもあり最低気温がマイナスを下回りましたが、天気は快晴!さあ、まちあるきマップを持って、暖かい格好で出発です。

木曽福島の町
崖の上に立つ崖家
高低差を感じるに町並み
階段をのぼる

02木曽川に面して
細長く続く河岸段丘のまち

木曽福島のまちを歩くと狭小な平地に人が密集し、崖を挟んで上と下それぞれにまちが出来ています。
急な崖に沿って建てられた建物や屈曲した坂道が多く、高低差を感じる町並みに気づきます。福島は木曽川沿いの崖家が有名ですが(別項:05)、福島駅前に並ぶ建物も、背後から見ると崖の上に立つ崖家だと分かります。

中山道 福島宿
宿場の中の街道
舌状台地
地形を生かした防衛ライン

03中山道 福島宿(上の段)

中山道37番目の福島宿は山あいの狭い平地に宿場が展開して、この宿場の中で街道は河岸段丘の崖を上り下りしています。とくに上の段のあたりは舌状台地と呼ばれる地形の上にあります。
舌状台地とは台地の末端で舌のような形で突き出した台地のことで、ここでは木曽川と八沢川によって浸食されてできた台地になりますが、両河川と台地端部の間には平地がほとんどないこともあり、いったん木曽川沿いの平地に下りた中山道はここで舌状台地へ上ることになります。
台地へ続く街道は坂道に加えて鍵の手状に曲がっているため見通しが悪く、街道を横断するように設けられていた水路と合わせ、地形を生かした防衛ラインが巧みに構築された様子を見ることが出来ます。

あれ、なぁに?宿場町を支える「水」

木曽福島のまちなかを歩くとあちこちに「水場」があることに気づきました。中山道福島宿には関所があり、多くの人や牛馬が行き交ったことでしょう。住民や旅人にとって不可欠な「水」。生活用・飲料用・防火用など、様々な水場が残されており一部は現在でも活用されているそうです。

宿場町を支える「水」

福島関所跡 門
福島関所
福島関所跡 柵

04福島関所跡

日本四大関所のひとつに数えられる福島関所もまた山を背負った急な崖につくられました。
反対側の平らな木曽谷に関所を設けなかったのは武家町だったからです。こうして福島関所は地形を活かした場所につくられました。
現在、福島関所跡は史跡公園として門や柵などが復元され、当時の面影を感じられます。

あれ、なぁに?入鉄砲出女

江戸幕府が治安維持のために江戸に持ち込まれる鉄砲と江戸で人質としていた大名の妻が国へ脱出するのを防止するための交通政策の一つ。旅の目的や行き先、人相や素性など関所で検査も厳重に行われ、厳しい取り締まりを行っていたそうです。

入鉄砲出女

崖家造り
木曽川から家並みを見る

05崖家造り

木曽福島のまちの景観として観光名所的に知られている「崖家造り」。3・4階建ての建物が木曽川の崖上に建てられ川沿いに家並みが続く姿はとても印象的です。
平地の少ない土地を有効活用した崖家造りは全国的にも珍しいもののようです。

風景には、物語がある

地形は路(みち)を切り開く

長野県=信濃国には歴史ある街道が何本もありますが、最も有名かつ馴染み深いのは、なんといっても中山道ではないでしょうか。
17世紀初頭、江戸幕府により江戸を起点とする五街道のひとつとして整備され、東海道とともに江戸と京都を結ぶ二大幹線道路として重用された日本の大動脈。信州においては軽井沢の碓氷峠を東の玄関口とし、現在は岐阜県に属する馬籠の宿場町の西端まで。宿場の数で六十七次とも六十九次ともいわれる中山道全体のうち、馬籠を含めると二十六宿が信州に存在し、うち十一宿が今回まちあるき部ツアーの舞台となった木曽路に在ります。
島崎藤村が小説「夜明け前」の冒頭で「木曽路はすべて山の中である。」と記したように、木曽エリアは険しい山中の街道歩きとなるのですが、だからこそ宿場の存在は旅人にとって大変重要な存在だったと言えるでしょう。
そんな木曽十一宿のうち、福島宿は中世から現代にかけて、ずっと木曽地方の中核であり続けたまちです。宿場町としての印象が強いですが、中世には城下町だった時期もあり、また近世は関所を預かる代官所が置かれ、陣屋町と宿場町の両方の性格をもつ、木曽谷の政治経済の中心地として発展してきました。
本陣・脇本陣を中心に整備が進み、参勤交代の大名も受け入れる立派な宿場となった福島のまちですが、そもそも木曽谷のなかで、なぜここが地域の中核を担う土地として選ばれたのでしょうか?
明確にその根拠を書き残した古文書があるわけではないでしょうが、地形を読み解くとこの地に関所という軍事・政治上の重要拠点を併せ持つまちが展開した理由も、なんとなく頷ける気がしてきます。

善光寺 門前町

まず福島のまちは木曽川が作り出した河岸段丘の細長い段丘面に展開しています。広くはありませんが宿場町を形成するには程よい平地が確保できる一方、まち全体の高低差は大きく、メインストリートの中山道を歩いてみるとかなりのアップダウンがあることを体感できます。坂道+桝形(鍵の手)の採用でまちの見通しを悪くし、さらに河川や標高の高いところから引き込んだ水路に宿場の入口で街道を横断させるなど、まちの防御手段のセオリーを採用しやすかったという自然地形の利点があったことを観察することが出来ます。
そして中世の城下町時代、山頂にあった城から狭隘な街道筋を監視しやすい状況だったのと同じように、江戸時代に関所が設けられた場所も段丘面の平地の終端にある、木曽川に急峻な崖が迫ることで街道の抜けどころがここしかないというポイントでした。関所の背後には中央アルプスまで続く山が控え、木曽川の対岸は一般の往来が容易ではない代官屋敷をはじめとする武家地エリア。福島は自然地形を巧みに生かした街道の設定と町割りにより、中山道の通行人を監視しやすくするための条件を整えることが出来たのでしょう。

善光寺 門前町

地形的には他の宿場界隈でも似たような環境はあったと考えられるなか、福島は江戸と京都を結ぶ中山道の、距離にしてほぼ中間地点にあたるという地理的要素もまた、もしかするとこの地をして関所のまち足らしめた背景にあったのかもしれませんね。
地形を読み取りながらまちを歩くと、いろんな背景とまちの物語が見えてきます。専門的な知識を持ち合わせていなくても、目の前に広がるまちの風景を眺めながら空想にふける楽しさは誰でも体感できるものです。風景から読み取れる物語を空想しながらまち歩きを楽しむ。おすすめです。

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