今回の舞台は初の東信エリアである上田。
智謀に優れた戦国武将・真田昌幸によって築かれた上田城は、自然の地形を巧みに利用した堅固な城。濠の代わりとした千曲川の流れや、城下町に設けられた防御の為の工夫。真田の城造りの秘密など、上田のまちの魅力を探っていきます。
現在、上田高校がある場所はかつての上田藩主の居館でした。真田昌幸の子・信之によって建てられたお屋敷は代々上田藩主に住み継がれ、今でも表御門が当時のまま残され上田高校の正門として利用されています。
また濠の内側には敵の侵入を防ぐため土を盛って構築された土塁と土塀も当時のまま形を残しており、表門や濠と共に上田市文化財の指定を受けています。
南側は千曲川と河岸段丘の段丘崖という天然の要害に守られ、北と西は水路を改変した矢出沢川と大規模な堀によって防御を固める上田城。東側の城下町を設けた先にも湿地帯が広がるなど、自然の地形を巧みに利用した城造りを行いました。南側を段丘崖直下には千曲川の分流「尼が淵」があり天然の堀としての役割を果たしていましたが、崖を構成する地層は崩れやすい性質で、大水で浸食されることもある諸刃の剣でした。そのため幾つかの年代において、崖を浸食から守るための石垣築造が行われました。
城跡の北側と西側には市民の運動場や高校のグラウンドが広がっています。周囲から一段低い土地となっているそれらは、広大な幅を持つ堀だったところから水を抜いて整備されたもの。そしてその堀もまた、もとは矢出沢川の流れを堰止め、周辺低地を広大な水堀にコンバージョン(転用)したものでした。堰止めに使われた堤防は今も道路として生きており、時代を経て地形と土木事業の巧みな転用の様子をうかがい知ることができます。
城下町の一角、北国街道に面した現在の原町郵便局付近は蛭沢川が横切り、土橋という名の橋が架かっていました。橋の上に土を被せたことから土橋と名づけられましたが、川の流れの上にあたる道の両側には町家も建てられ、一見すると川だと分からない様子だったそうです。戦略上の偽装とか、街並みの安定を図るためとも推測されていますが、現在の川と道路の姿からも当時の様子を垣間見ることができる、城下町の隠れ見どころポイントです。
今も城下町の風情を感じられる柳町は北国街道沿いに発展した商人の町で、街道から城下町に入る北側の玄関口に位置します。蛭沢川を渡って城下に入るとすぐに道は折れ、整然とした柳町の街並みを目にすることができますが、昭和以降も古い時代の街並みが残されていたことから、幾度も映画ロケなどに利用されてきました。現在も地域の方々が街並み景観の保全活用の為に活動されており、城下町の雰囲気を感じながら歩くことができます。
城下町といっても成り立ちや構造はまちによってさまざま。戦国時代のまちづくりの痕跡巡りとなった上田では、地形や地質とまちづくりの関係を再発見した楽しい旅となりました。
NHK「ブラタモリ」でもおなじみの赤色立体地図は土地の凹凸を分かりやすく表現した起伏図の一種。単なる高低差確認だけでなく地形の成り立ち分析にも活用でき、いまやまちあるきの必須アイテムです。地形を巡る今回のツアーでも大活躍でした。
「惣構え」という言葉をご存知でしょうか?私たちが日ごろ「お城」と呼んでいる城跡だけでなく、その外側にある城下町も堀や土塁などで囲い込んだ、城郭の形態を指す言葉です。
惣構えは江戸城や姫路城といった全国各地の城下町に見られますが、信州でも上田城などは惣構えの城下町とされていて、堀や土塁に加えて自然の川や崖も利用した様子は、全国の城ファン必見の見所が満載で、上記紹介の通り、私たちサンプロまちあるき部も2018年秋に城下町を探訪し、上田城の惣構えの魅力を体感しました。
現在残る上田城は江戸時代に再建されたものですが、城と城下町の原型は戦国時代にこの地を治めた真田昌幸により築かれたもので、希代の戦略家との評価も高い昌幸は、城造りでもその才をいかんなく発揮したとされています。
上田城の南側は中心市街地とは思えぬほど急峻な崖になっており、築城時は崖直下まで千曲川の分流が流れる天然の要害でした。真田昌幸は城造りにおいてこれを巧みに利用しただけでなく、城のすぐ北側にあった矢出沢川の流路をさらに北方へ移し、城下町を取り囲むように作り替えたのです。
さらに元の矢出沢川一帯に広がっていた低湿地に堤防を築いて水を引込み、広大な幅を持つ堀を出現させたのでした。この堤防は現在も地域住民の生活道路として生きており、幅広い堀跡にすっぽりと納まった野球場や陸上競技場は市民に馴染みの施設として活用されています。(堤防の話など真田の築城内容には諸説あります。)
築城と城下整備は各地の権力者により都度行われ、その痕跡は現代の町並みに見て取ることが出来ます。真田昌幸により建設された上田の城下町もまた現代の上田市街の原型をなすもので、まち歩きをすると昌幸の巧みな戦略思想と戦術が各所に残る痕跡から読み取れそうで、とても興味深く感じられます。
自然の地形や地質を生かしつつ、防衛上難のある部分は大規模な土木工事で改変し、城を強固ならしめる。小国の武将に過ぎなかった真田昌幸の、天下人となった徳川家康をも手こずらせたその智謀は、槍や鉄砲で戦う合戦だけでなく、戦国時代の都市計画家として、また地方都市のデベロッパー(開発業者)としての技量にも存分に発揮されたのでした。