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丸竹夷さんと古地図で巡る信州【vol.4】-木曽編 「宿場町の美しい風情を残す、奈良井宿」

2024.01.01

こんにちは!サンプロ広報のオブチです。

2024年の年始企画では信州をもっと愉しむ企画として、歴史系YouTuber丸竹夷さんと一緒に古地図を携え信州の各地を回ってきました!

 

丸竹夷まるたけえびすさん
福岡県出身。小学校教諭をしていた経歴を持つ。
現在、歴史系YouTuberとして2本のチャンネルを運営。
・大学受験レベルの歴史を実際の場所の映像も交えて解説する「YouTube高校 / 日本史」
・古地図を基に全国各地を旅する「丸竹夷 / 歴史旅行」
大学受験向けの書籍を出版。大学受験~趣味で歴史を楽しむ層へ幅広く歴史を解説する。

 

古地図で信州を巡った理由、それは、それは皆様に信州をもっと愉しんでいただけるようなきっかけをお届けするためです。

私たちが普段見ている街並みは3次元の景色ですが、歴史を知ることで「時間」というもう一つの観点を得られれば、
街並みを4次元的に捉えることができ、より立体的に信州を愉しむことができます。

つまり、「私の見ているこの場所には、昔こんな施設があった」というように、3次元の視界に「時間」軸を加えた景色として見ることが出来るようになるのです。

信州をもっと愉しもう企画の詳細と裏側はこちらから!

 

本回は企画第4弾として、奈良井宿と木曽義仲にまつわる場所を巡りました。
ぜひ、街歩き感覚で歴史旅をお楽しみください。

 

YouTube動画はこちらから

 

この企画では、YouTuber丸竹夷さんと一緒に信州の各地を巡っております!
ぜひ、こちらもご覧ください。
第1弾 上田編【難攻不落の上田城と海野宿の秘密】
第2弾 長野編【日本一の門前町 長野市の街歩き】
第3弾 松本編【信州の誇り 松本城で知る 城下町巡りの醍醐味】
第4弾 木曽編【宿場町の美しい風情を残す、奈良井宿】
2024年「信州をもっと愉しもう」企画総合ページ

 

 

江戸の風情を残す奈良井宿を巡る
オブチ
オブチ
木曽編のナビゲーター:サンプロ広報オブチ
奈良井宿は江戸の面影を残した美しい地ですので、観光地としても人気高いスポットですね。
丸竹夷さんは木曽にお越しになったことはございますか?
僕は、今回の撮影で初めて来ました!
驚いたのが、奈良井宿の規模感と昔の様子を残した街並み
ここまで大規模に宿場町の街並みが残っている場所は全国的にも珍しいです!
丸竹夷さん
丸竹夷さん

奈良井宿は中山道34番目の宿場
中山道とは、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道です。
全部で69の宿場がありました。奈良井宿はちょうど中間地点の宿場町でした。

中山道は内陸の街道ですので、3大難所と呼ばれた険しい峠を通らなければなりませんでした。

オブチ
オブチ
3大難所とは鳥居峠碓氷峠和田峠です。
現代で車で運転するときもハードな坂道ですよね。
鳥居峠は奈良井宿と薮原宿の間の峠でしたので、奈良井宿は京に行く人からしたら峠前の一休憩に、江戸に行く人は峠後の休息に使っていたのかもしれませんね。

今回の街歩きMAP↓

 

 

江戸時代の庶民の旅事情
江戸時代は浮世絵「東海道五十三次」のヒットに見るように旅行ブームが起こったそうですね。
庶民の旅事情について教えていただけますか?
江戸時代に庶民が旅をするのは、現代では海外旅行に行くくらいの感覚であったと思います。
移動手段が徒歩になりますので、旅行にかかる日数も多く、費用も多額でした。
ですので、行きたい場所(主には寺社など)があるときは村などで代表者を選出し、皆でその人にお金を出資しました。
その分、出資してくれた人たちの分まで参拝したり、要望がある場合は浮世絵やお守りなどのお土産を買ったのです。
丸竹夷さん
丸竹夷さん
お土産って、お金をいただいた分お返しの意味も含めて渡すものだったのですね。
現代とはかなり感覚が違う・・。
オブチ
オブチ

庶民の方は宿泊予約などはせずに、木賃宿きちんやどという簡素な宿に泊まっていたそうです。

 

また、木曽と言ったら『五平餅』が有名ですが、これも宿場町が多かったことが関係しているそうです。
宿場町は「寝る場所」としての使い方以外にも「ご飯を食べる場所」としての使い方もされていました。
徒歩で移動しているため時間的余裕がない中で、さっと食べられる五平餅は重宝されたことでしょう。


↑五平餅(奈良井宿ではないですが、木曽福島周辺のお店で食べた際の写真です)

五平餅はいろいろな形がありますが、宿場町によって異なるそうです。
愛知県寄りの方ではわらじ型が多く、岐阜寄りでは団子型が多いそう。

宿場町ごとに五平餅の形を確かめるのも楽しそうですね!
オブチ
オブチ

 

身分の高い人や参勤交代時の旅事情
宿場町巡りで最も気になるのは、大名など位の高い人が宿泊する本陣ですね!
参勤交代時の宿場事情について教えてください!
庶民の旅では宿泊予約不要でしたが、参勤交代となると宿泊の手配が必要だったでしょう。
身分の高い人の宿泊施設を確保していないといけませんし、大名同士でダブルブッキングしてしまっても大変な事態です。
一行の人数もかなり大掛かりになってくるので、スケジュールの手配は必須でした。
丸竹夷さん
丸竹夷さん

 

本陣とは、宿場において、天皇の御遣いである勅使や、参勤交代の大名、公家、また幕府役人などが宿泊するための施設です。
本陣を運営する職を命じられたのは、土地の旧家など由緒正しい家でしたので、幕府公認の宿ということになります。
また、本陣がダブルブッキングしてしまったらどうするのか?という問題ですが、脇本陣という予備にあてた宿舎がありました。
本陣と脇本陣は一般の旅籠屋と違い、特権として門、玄関、書院を設けることができました。

 

奈良井宿には本陣は残っておりませんが、脇本陣は現存しているようです。

オブチ
オブチ
脇本陣は「伊勢屋」さんです。宿泊もできるようですので、気になる人はチェックしてみてください!

 


↑本陣跡。本陣は火災で焼失。現在は駐車場になっている。

 

 

宿場町の防御対策
宿場町の道は、曲がり角の多い城下町と違って、一本でまっすぐに伸びていることが多いです。
でも、奈良井宿は中間部分でくいっと曲がっている部分があるでしょう。
これは鉤手(鍵の手)といって向こう側に誰がいるか分からなくするための防衛設備なのです。
丸竹夷さん
丸竹夷さん
なぜ宿場町で防御対策をしていたのですか?
もし争いがおこったときに、攻めてくる敵は街道を使うことが多いでしょう。
街道を使う以上必ず通る宿場町で攻めを防ぐことが出来るよう、防御設備を置いていたのです。
丸竹夷さん
丸竹夷さん

 


↑奈良井宿の鉤手

 

松本編で松本城を巡ったときに沢山防衛設備を発見しました。
今回の奈良井宿でも「鉤手」「桝形」を見ることが出来ました。宿場町を訪れた際にどこに防衛施設があるのか探しても楽しいですね!

 


↑奈良井宿の両端に桝形がありました。宿場町への侵入の足止め施設として使われたものと思われます。

 

 

本陣内を見学  -宮ノ越宿

奈良井宿を出て次に向かったのは宮ノ越宿。


奈良井宿を出て、中山道の難所である鳥居峠を越え、藪原宿の次にあるのが宮ノ越宿です。

 

宮ノ越宿では本陣に入れるということで見学させていただきました。

↑宮ノ越宿本陣
ここでは本陣の客殿部分を実際に入って見学することできました。
明治16年2月に旧中山道宮ノ越宿は大火にあい、90軒の家が被害にあいました。この大火で本陣の主屋部分が焼失しましたが、客殿部分は焼失を免れました。

オブチ
オブチ
実際に本陣内を見学すると、改めて本陣の造りの美と豪華さを感じました。
身分の高い人の座るところは一段上がっていたり、謁見の部屋があるなど、身分の高い人専用の宿であった形跡を見ることが出来ました。

 

 

木曽編ラストは木曽義仲館を見学

 

 

木曽義仲について教えてください!
木曽義仲は『源義仲』とも言います。義仲は源頼朝のいとこにあたる人物です。
平安時代末期の武将で、源平合戦の主要人物の一人です。
義仲の最も有名な戦いは、1183年の倶利伽羅峠の戦いで、この戦いで平氏の大軍を破り、その後、京都に入城し一時期は政権を掌握します。
しかし他の源氏のの不興を買い、1184年に頼朝の追討軍によって討たれ、その生涯を終えました。
僕の好きな武将の一人です!
丸竹夷さん
丸竹夷さん

 

義仲は美濃源氏の流れを汲む武将で、その武勇戦略により多くの戦いで活躍しました。
義仲は1154年に生まれ、若くして家督を継ぎます。彼の生きた時代は、平氏と源氏という二大勢力が日本の支配を巡って争っていた時期でした。

幼少期の義仲は、木曽の名族である木曽氏の一員として、武術や馬術、そして戦略を学びながら成長しました。
義仲が非常に若い年齢で馬術や弓術に長けていたという逸話が残っています。

義仲の最も有名な戦いは、1183年の倶利伽羅峠の戦いで、この戦いで平氏の大軍を破り、その後、京都に入城し一時期は政権を掌握します。

 

俱利伽羅峠の戦いとは・・
倶利伽羅峠は、現在の石川県と富山県の境に位置する峠で、
平氏の本拠地である京都への重要なルートであったことから軍事的に重要なポイントでした。
義仲は、この峠を制することで平氏に対する優位を確立しようと考えました。
戦いでは義仲は少数精鋭の軍を率い、峠を抑える平氏の軍と対峙しました。
義仲の軍は、優れた戦術と勇猛な戦いで、平氏軍を破り、大勝を収めました。
この戦いの勝利により、義仲は一躍時の英雄となり、その名声と権力は頂点に達しました。
彼はその勢いを利用して京都に入城し、短期間ですが政権を掌握しました。

 

しかし、義仲の栄光は長くは続きませんでした。彼の急速な台頭と権力の掌握は、他の源氏の有力者たち、特に源頼朝の不興を買い、
結局、義仲は1184年に頼朝の追討軍によって討たれ、その生涯を終えました。

◎義仲については丸竹さんのYouTube高校にて詳しく知ることが出来ます。
気になる方はこちらをご覧ください→【平安時代】69 木曾義仲の最期と宇治川の戦い【日本史】

義仲の隣にいる女性はどんな人だったのでしょうか?

巴御前です。巴御前も木曽出身で、義仲とは幼馴染でした。
女武者として義仲に仕え、共に戦っていました。結婚はしておらず、義仲と愛人関係であったと言われています。
勇敢で男勝りなキャラクターとして知られています。
丸竹夷さん
丸竹夷さん

木曽義仲と巴御前の関係はドラマチックですね。
※巴御前の記述に関しては諸説あります。

木曽の山間の地から義仲のような強い武将や、巴御前のようなミステリアスな女武者が生まれ育ちました。
現代の木曽は落ち着いた、自然美しい場所ですが、歴史をたどると「武将が生まれ育った地」という全く違う景色が見えてきます。

義仲の人物像は、その武勇短命ながら華々しい経歴により、後世に多くの物語や伝説で語り継がれています。
木曽義仲館は、義仲を記念し、彼の生涯と業績を展示する施設です。
義仲に関する文献、武具、当時の生活様式を伝える展示物などを通して、義仲の生涯や時代背景を深く理解することができる場所でした。
義仲館内部についても動画内で扱っておりますので、ご覧ください!

 

編集後記

美しい自然に囲まれた木曽は、かつて人々が行きかう街道の中間地点であり、宿場町として栄えていました。
現代では、風情ある街並みを見ることが出来ますがですが、古地図をから一つ一つの場所が何のためにあった場所なのかを知ることで、
この地に来た人が、どんなことをして過ごしていたのかを知ることが出来いました。

今は静かで、ひたすらに山と森の存在に圧倒される地ですが、
昔は賑やかで、全国から集まった人々の文化が行き来する地であったことを垣間見れました。
ひっそりと佇む木曽の地は、実は深い歴史を秘めていました。

皆様もぜひお越しになってみてはいかがでしょうか。

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